死生観とは
人の生死に関する考え方を死生観と言うんやけど、沖縄離島に住んでから、独特の死生観を感じるようになった。
宗教とか信仰の話は深入りするとちょっとややこしいから、今回は自分の目で見て、身近で感じたことを話してみるで。
死者はどこへ行くのか
僕は昔から特別何も宗教に入ってなくて、信仰する対象もないんやけど、
例えば近しい人が亡くなった時、魂というものはあるんやろなと漠然と感じて、
どこに行ったかわからんけど、地上よりは上にいるんやろなとイメージしてる。
地面の下にいるとは思わんな
これは仏教や神道や色々な情報、知識をミックスしたり、子供のころの親から言われた影響とかが大きいんやろな。
故人、祖先を感じるのはお盆の時期とか正月に墓参りしたときくらいで、普段の生活で意識することはないかな。
空から見守ってくれてんのやろなって、そんな感じ。
驚いた風習
伊江島に住んでから感じたことは、死者と生きている人の距離が近い気がする。
伊江島では家族葬(自宅葬)がメジャーな土地柄なんやけど、そうするとだれだれが亡くなったんだなというのが道を歩いてるとすぐわかる。
島外で亡くなっていても、出来れば島までご遺体を運んでくるらしい。
僕は今まで家族が亡くなったりしたら、一番近いセレモニーホールみたいなとこに安置してもらって、もう身内だけで告別式から全部済ませるって感じしか経験したことなくて。
だから普段で誰々が亡くなったか知るのは親戚の時ぐらいだし、日常生活で他人の葬儀を見ることがない。
伊江島では告別式も、家族だけでなく知り合い程度でも参列してお別れをする。
そうなると告別式参列が日常になってくる。
仕事を一時抜け出して、告別式参列して戻るという感じ。
ちなみに香典の相場も、内地に比べて沖縄は安く、地域によっては新生活運動の名残が残っているところもある。
新生活運動とは
戦後の復興期に、冠婚葬祭や行事の簡素化を目指した運動。
要するに、各個人の裁量に任せたらどんどん出費が上がっていくので、
一定の値段で統一しましょうという運動。
伊江島では香典は1,000円。やはり参列する機会が多いため、こういった値段に落ち着いたんやろうな。
故人をしのぶ感覚
僕は知り合いが亡くなったら数週間は落ち込む。
もちろん人それぞれ故人に対する想いの表現は違うから、落ち込むのが良いとか、
気にしてない人は冷たいとかを言うつもりはないで。
一方で沖縄の人達は、常日頃から死者を送る覚悟を持っている気がする。
沖縄は先祖に対する崇拝が特に色濃く残ってる。
3大祖霊祭がいまだに大切に行われてきてる点、
死者の霊はお墓ではなく自宅の仏壇にいるという点、
洗骨という儀式。
洗骨(せんこつ)は、一度土葬あるいは風葬などを行った後に、死者の骨を海水や酒などで洗い、再度埋葬(二次葬(英語版)、複葬)する葬制である。
祖先を意識することが多く、あの世が近い感覚は、沖縄に来てから感じるようになった。
死者との距離が近いから、そんなに寂しがるものでもないのかなと、勝手に思った。
自分の生をかみしめる
人間ってものさしがあって初めて自分の立ち位置が分かるんやと思う。
お金持ちの人を見れば自分は貧乏やと感じるし、貧乏な人を見れば自分は恵まれてると思う。
背の高い人を見れば自分は小さいと思うし、要はなんでも比べる対象で認識が変わってくる。
死を身近に感じることによって、今自分が生きているという色が濃くなる。
当たり前に毎日生活していたことが、当たり前じゃないんやと意識するようになる。
だからといって
「よっしゃ毎日に感謝して生きていこ!」
みたいにポジティブになるわけじゃないんやけどな。
なんとなく生きてた→いま、生きてるんやなと実感
この感覚は、自分が内地から離島に来たから感じるのか、
はたまた沖縄の人はどういう感覚なのかは気になるところ。
沖縄に来て不思議な体験の話でした。